宇佐美石切り場・旧街道コース
日本の歴史街道「江戸城石切場遺跡」
ナコウ山〜離山コース -約4時間30分
ナコウ山〜白波台コース -約3時間30分
ナコウ山〜洞入コース -約3時間00分
頼朝公がのがれ、松陰先生が走った歴史街道
旧街道コース -約4時間00分

宇佐美の浜
昔、宇佐美の浜に神様が上陸した時「何という美しい砂浜じゃ」とおっしゃったことから
「うさみ」という名がついたという言い伝えがあります。
家康・秀忠・家光と三代にわたる江戸城 -築城石の切り出しの大部分は伊東から
家康が江戸へ入った頃の城は貧弱なものであったが、
関が原の戦いに勝って江戸が天下の中心となるにつれて、家康はここを壮大な城につくりかえた。
その基礎となる石垣用の石の大部分は伊豆から運ばせた。
慶長10年(1605)から始まる30数年の間に、何回にもわたって全国の大名に命じて石を切り出させた。
伊東はその中心的な場所にあたるので、いたる所に大名の石丁場(石の切り出しを行う場所)が置かれ、
村の人口の数倍にもあたる作業員が来ていた村もあった。
多い時には三千艘もの船が月に2度ずつ江戸と伊東の間を往復したといわれ、
伊東の村々にも大きな影響があったと思われるが具体的な内容については、よくわかっていない。
現在の皇居(江戸城跡)の石垣には、こうして伊豆から運ばれた石がたくさん入っている。
御石ヶ沢
御石ヶ沢隧道から網代にかけての地域を御石ヶ沢と呼ばれている。
それは将軍様の御用石、すなわち「お石」が運び出された場所だから「お石ヶ沢」と呼ばれた。
質のよい石が豊富にあることと、海上輸送できる物理的な条件などから主たる採石地として伊豆が選ばれ、
各大名は競ってここに石丁場(石切り場)を設け、それぞれの紋等を刻んだ「刻印石」が今も数多く残っている。
刻印石とは
採石された石には「刻印」が刻まれることが多く、
この刻印が助役大名を決める決め手として重要である。
「刻印」を「石垣にノミで刻んだ印」として「刻印石」と称する。
■左図上-左 丸に一 前田家もしくは細川家と推定。
■左図上-中央 丸に十
島津家の家紋であり、大阪城でも島津忠興の印。佐土原藩島津家の可能性も高い。
■左図上-右 九曜
石丁場調査では加賀前田家が九曜を使用している。細川家のものである公算も強い。
城山
頼朝25功臣の一人、宇佐美祐茂の居城跡と言われている「宇佐美」姓の発祥の地である。
ナコウ山コース
ナコウ山 352.7m
この山の語源は不詳。
この山奥で働いた石工たちは毎日の石切作業も重労働であり、
妻子のある者も、年老いた親のあるものも故郷を偲び泣き泣き、
お互いに作業に励み「泣こうではないか」と言ったのが、この山の名の起こりではないかという説もある。
石切り場の大石の標石
羽柴越中守細川忠興は、
豊臣家から羽柴姓を貰い35万9千石の大名になった。
忠興の父は、文人武将として有名な幽斎であり、
妻は切支丹の熱心な信者であり洗礼を受けた「ガラシヤ」である。
細川家が切り出した大石の中にはT(ティー)があり、
この時代、アルファベットの頭文字を刻印するのは珍しい。
離山コース
離山 154.0m
伊東における採石大名は14家、石丁場55箇所、
刻印を有する石材950個を確認したと言われている。
留田の離山もそのひとつ。
竹林が続く道の先、右に行くと山頂付近に石切り場跡がある。
左に行った先の展望台では初島が目の前に広がる。
旧街道コース
旧街道 (東浦道・東浦筋)
この旧街道は、鎌倉時代から小田原で東海道から別れ、下田までの重要な街道であった。
中央区立宇佐美学園裏側から網代峠の茶店までの約4kmで最も自然が残っている区間です。
比波預天神社(式内社)
宇佐美で一番古く千年以上前からある神社です。
■風神(天神社境内)
天神社拝殿の右側、小さな祠内に、右:風神 左:山の神、
宇佐美地区内で風神を祀られているのはここだけ。
■ホルトの木
静岡県指定天然記念物(天神社境内)
通称「クズレ」
街道左下は江戸城修築の時の石切り場であり、
雨水の流れやすい所でもあったため、ここを「クズレ」と昔から呼んでいる。
ユーカリの林
パルプ材の不足を充うため、生育の早いユーカリをこの山一帯に植えてパルプ材にした名残が現在も残っている。
平石(ひらいし)
旅人たちが峠に向ってきて、峠の下の茶屋まであと一息の地点でひと休みした場所だと言われている。
峠の馬頭観音
もう少しで峠というところにある。台座に道標が彫られ「村内安全」とある。
