伊豆の歴史・文化

伊東市史だより -第8号 H19(2007)-03/31

伊東の地震と津波 -伊東市史専門委員 今村文彦

伊東の地震と津波画像 写真左
 和田一丁目の海岸にそびえていた十本松
(明治末年椙本輝男氏蔵)
写真右上
 大正12年9月1日の地震と津波で全滅状態となった和田一丁目周辺
(『関東震災畫報』から)
写真右下
 関東大震災で倒潰した豆東製氷の建物と背後の十本松
(この松によじ登って助かった人もある)

伊豆東海岸は、房総半島と伊豆半島の二つの半島に挟まれた相模湾の北西部に位置しています。
ここでは、フィリピン海プレートがユーラシア大陸プレートの下に沈み込んでおり
過去、繰り返し地震を発生させ、津波も伴っていたことが報告されています。
地球の構造上、地震や津波だけでなく、火山噴火も発生しやすい地域で
将来においても、同じ現象は繰り返し生じるものと考えられます。
我々は、このような自然災害と共存しなければならないのです。
そこで、大切な事項として…

過去を知り、将来を考えること
自助・共助の意識を持ち、出来ることから備えを実施すること
市民だけでなく観光客や来訪者に適切な情報を迅速に提供すること

この三点は特に重要です。
市史編さん事業で伊東の歴史を明らかにすることは、
過去を正確に知って、地震や津波の危険を予測し、対策を立てるのに役立ちます。
これまでにわかっている伊東周辺の地震・津波の過去の事例を挙げると以下の通りです。
古い時代のものは史料に明確な被害の記述が見られないものもありますが、
繰り返し大きな地震と津波が伊東を襲っていることが分かります。

元慶の関東地震 元慶二年(878)9月29日

相模国分寺、同尼寺で被害があった。『日本三代実録』

嘉保の東海地震 嘉保三年(1096)11月24日

駿河で社寺・民家の流失四百余、伊豆の被害不明。

明応の東海地震 明応七年(1498)8月25日

鎌倉で津波による溺死者約二百人である。

寛永小田原地震 寛永十年(1633)1月21日

伊東での被害状況は不明確だが、小田原に大被害があり、
熱海・網代・宇佐美に津波が記録されている。

元禄地震 元禄十六年(1703)11月23日

近世において伊東が経験した最大の津波被害として位置づけられる。
伊東での被害状況(民家・寺院・船など)について「浜野家図」から窺える。

宝永地震 宝永四年(1707)10月4日

下田では家屋・船に大きな被害があり、死者は十一人であった。
下田の被災民に代官(小長谷勘左衛門)による米の施しや金銭の貸し付けがあった。
伊東では大きな被害はなかった模様。
これは、四年前の元禄地震の大規模な被害を受けて、
地震・津波に対する何らかの対策や住民の高い意識があった可能性がある。

嘉永小田原地震 嘉永六年(1853)2月2日

小田原での震害が大きく、その被害情報が伊東にも伝わっていたが、
被害は小さかったと思われる。
ただし、石垣・土手の崩壊など被害があった。

安政(嘉永)東海地震 嘉永七年(1854)11月4日

伊豆半島では西海岸と下田が大きな被害を蒙った。
網代村では、地震による屋根瓦の落下や急激な潮の干満はあったが、
人々は高所に避難しており、幸いにも人的被害はなかった。
被害状況としては、宇佐美村では留田港が崩れて漁船が流出し、
川奈村では急激な干潮によって、船が浜に取り残されていた。
伊東では物的被害はあったが、人的被害は少なかったと考えられる。
熱海では10mを越える津波が報告されているが、信頼性に疑問が残る。 (静岡県1986)

大正関東地震 大正十二年(1923)9月1日

関東地方南部を襲った大地震で未曾有の大災害が生じた。
東京・横浜をはじめ都市部では地震後に発生した火災の著しい被害は知られているが、
さらに、この地震はプレート境界の巨大地震であり、
地震直後房総半島南部から三浦半島、相模湾北岸にかけて
地盤が隆起し、丹沢山地を中心に沈降した。
その結果、地震発生後数分から数十分のうちに大津波が
相模湾岸と伊豆諸島、房総半島先端に押し寄せた。
渡辺(1998)によると、津波の高さは熱海12m、房総半島先端付近9m、伊豆大島岡田12mと
異常に大きな値も記録されている。

このように、伊東市周辺に多くの地震・津波が発生していますが、
年代が遡るにつれて情報は少なくなり実態を把握するのが難しくなるのです。

津波挙動の特徴

元禄地震、大正関東地震による津波は、伊東に最も大きな被害をもたらした事例と考えられます。
いずれも、南関東沖で発生した巨大プレート間地震で起きたもので、
相模湾沿岸および周辺に大きな津波を発生させました。
津波の影響は、その発生時の規模だけでなく、発生位置が強く関係します。
相模湾を挟んで対岸に位置する伊東市は、波源からの津波を直接受ける場所なのです。
さらに、津波が沿岸で波高を増幅させる原因としては、
水深が浅くなることによる浅水変形、V字湾など湾幅が狭くなることによる集中効果、津波の周期と地形(湾など)
が持つ固有振動周期が一致することによる共振現象、などがあります。
いずれも複雑な地形の地域では、各地での津波の高さに大きな差が生まれることになります。
また、津波の第一波の押し・引きも簡単ではありません。
沿岸部の伝承として、「津波は引き波で始まる」と言われますが、これは正しくはありません。
地震による地盤変動の隆起や沈降の分布に対応して、津波の初動も変化します。
宇佐美の行蓮寺の石碑には、元禄津波は始め押し波がありましたが、
寛永津波では浜が干上がったことが記されています。
また、熱海市史には地震で港が地盤隆起した記事もあります。
これらは断層運動による海底地盤変動がそれぞれ異なっていることを示唆しています。
また、津波は地震ばかりが原因ではなく、火山活動や地滑りに伴う津波もあります。
伊豆諸島などでの火山活動による津波の明らかな例は確認されていませんが、
火砕流などが海域に到達すると津波を発生する可能性はあります。

元禄地震による津波

1703年に元禄関東地震が相模トラフで発生し、南関東地域で大きな被害が発生しました。
その約150年後の1855年には「安政江戸地震(東京直下型の地震)」が荒川河口付近を震源として発生し、
一万人前後の死者が発生しています。
津波について最も重要な情報として、伊豆宇佐美の行蓮寺境内にある元禄津波碑があります。
地震から59年後の宝暦十二年に建てられました。
行蓮寺の碑文には「溺死者大凡三百八十余運命尽期」と刻まれ、津波の犠牲者を供養しています。
宇佐美には寺院の過去帳に記された津波記録や言い伝えが各所に残り、
浸水域が海岸から1km近くまで至り、村落の大部分に浸水したことが追跡できます。
このほか、伊東・川奈にも、供養碑が多く現存しており、元禄津波がこの地域に猛威をふるったことを偲ばせています。
寺院の石段にはい上がった潮位記録や浸水域の広がりから、宇佐美−川奈間では津波の高さは8〜10mに達したと推定できます。
さらに、いくつかのお寺には、地震・津波発生日の記載がある墓石が数多く残されており、
過去帳と共に、人的被害の規模を知る重要な手がかりとなります。

大正関東地震による津波

津波によって大川橋の欄干に船が乗り上げている 写真
 津波によって大川橋の欄干に船が乗り上げている
(『関東震災畫報』から)

1923年(大正十二)9月1日、関東地方南部を襲った大地震により、
死者・行方不明十四万二千八百名、全壊建物十二万八千棟、全焼建物四十四万七千棟という
未曾有の大災害がもたらされました。
この地震はフィリピン海プレートの沈み込みによって
北西方向に押しつけられていた関東地方南部の岩盤が急激に跳ね返ることにより起きたプレート境界の巨大地震です。
地震直後房総半島南部から三浦半島、相模湾北岸にかけては地盤が隆起し、丹沢山地を中心に沈降させました。
震源に近い相模湾沿岸と南房総地域にとっては正に直下型大地震に襲われたのに等しく、
地震の揺れによる被害(震害)が甚大でした。
山崩れ・崖崩れも数多く発生し、また地震発生後数分から数十分のうちに大津波が相模湾岸と伊豆諸島に押し寄せたのです。
この津波により、宇佐美での津波は震後約7分で来襲し、全部で六回あり、このうち二回目のものが大きかったようです。
宇佐美の被害は全壊三十三戸、半壊六十七戸、流出百十一戸に上り、
西留田の集落で被害はもっとも大きく、六〇戸のうち、五十一戸が被害をうけています。
また、伊東は北東に開いた口の大きな湾をなしています。
湾奥には伊東大川の形成した低地があって、ここ全体に伊東の市街地が展開しています。
大正の関東地震においては、震後5分ほどで津波は来襲し、
全壊二百十九戸、半壊三百九十二戸、流出二百九十四戸の被害を受け、七十九名の死者、三十名の行方不明者を出しており、
伊豆半島東岸ではもっと被害が大きいものでした。
このときの地震・津波の来襲状況については『伊豆新聞』に連載されていた
「足記録」などの記事で詳細に記録されているので、お読みになった市民も多いことと思います。
さらに、現在も当時の様子を残す痕跡が起こされています。
ひとつは、玖須美区長さんのお宅で大切に保管されている大川橋の欄干です。
これは松川を津波が遡上した時に破壊されたものであり、津波の高さと破壊力を物語るものです。
もうひとつは、海岸沿いにあった十本松の一部です。
この松は、現在はビルに取り囲まれて往時を想像するのが難しくなっていますが、
十本の立派な松として伊東の和田浜にあったもので、
関東大震災の時にはこの松によじ登って命が助かったという人もあり、津波の脅威を体験して生き残った松なのです。
こうした事例のように先人の体験を後世に伝え、正確に歴史を調べることによって災害の被害を最小限にすることが肝要です。
歴史を伝える遺品から、津波のことをいつも想い起こして、対策を講じてゆきましょう。

大正関東地震の津波による被災範囲

大正関東地震の津波による被災範囲